翻訳と辞書
Words near each other
・ 立憲民主連合
・ 立憲民政党
・ 立憲王制
・ 立憲王政
・ 立憲自由党
・ 立憲議会
・ 立憲連合
・ 立憲連合党
・ 立憲連合党 (アメリカ)
・ 立憲連合党 (アメリカ合衆国)
立憲革命 (タイ)
・ 立憲革新党
・ 立憲養成会
・ 立憲養成會
・ 立憲養正会
・ 立憲養正會
・ 立戸ノ浜仮乗降場
・ 立戸ノ浜駅
・ 立政寺
・ 立教


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

立憲革命 (タイ) : ミニ英和和英辞書
立憲革命 (タイ)[りっけんかくめい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

立憲 : [りっけん]
 【名詞】 1. constitutionalism 
: [かわ]
 【名詞】 1. skin 2. hide 3. leather 4. fur 5. pelt 6. bark 7. shell 
革命 : [かくめい]
 【名詞】 1. revolution 
: [めい, いのち]
 【名詞】 1. command 2. decree 3. life 4. destiny 

立憲革命 (タイ) : ウィキペディア日本語版
立憲革命 (タイ)[りっけんかくめい]
1932年6月24日タイ王国(シャム王国)で勃発した立憲革命(りっけんかくめい)は、タイを絶対君主制から立憲君主制へと移行させたクーデターあるいは革命である。クーデターは、主に平民出身で構成された文民、軍人の官僚により組織された人民党によって行われた。
無血革命と説明されることが多いが、ただ一人、陸軍第一師団長のプラヤー・セーナーソンクラーム少将が取り押さえられる際、発砲を受け流血しているため、厳密には無血革命とは言えない。
なお、この政変を革命と表現するかクーデターと表現するかは定まっていない。日本語においては「立憲革命」と革命扱いされているが、英語においては "coup d'état of 1932" あるいは "coup" が用いられる表現がなされる事が多い。タイ語においては「仏歴2475年のシャム革命 ()」という表現がなされるが、そもそもタイ語における「革命 () 」と言う言葉自体、1971年にタノームがクーデターを起こした際に「革命団」と名乗るなどただ単に「変革」、「クーデター」と言う意味で使われる事がある〔冨田竹二郎 『タイ日大辞典』 めこん出版 1997年〕。なおタイ語においては、この立憲革命を含め、成功したクーデターを一括して、やんわりと「政変 () 」と表現する事も多い。この項目においては、特に両者を区別せずにクーデターという表現で統一する。
==背景==
チャクリー改革以降、ブンナーク家の支配を脱し、ラーマ5世(チュラーロンコーン)、ラーマ6世(ワチラーウット)は政治的に重要なポストに西洋教育を受けた王族を優先的に配置し、その実権を握っていた。一方で、ドゥシット宮殿ウィマーンメーク宮殿アナンタサマーコム宮殿)や、バーンパイン宮殿サナームチャン宮殿など、数々の宮殿を建造するなどの贅を尽くした生活様式や、特にラーマ6世に顕著に見られるが、文芸の保護に力を入れ、スアパー(ボーイスカウトの大人版)などの私的クラブなどの活動を行うことで、その国費を大いに消費した。
一方で1926年から当時の国王であったラーマ7世(プラチャーティポック)は大規模な官僚らのリストラを行い、国費の消費傾向に拍車をかけたが、1929年に始まった世界恐慌はタイ最大の輸出品であった米の輸出量を大きく下げ、これに伴い政府の収入も下降した。1931年のタイの予算は歳入が7894万バーツで、約853万バーツの赤字が出るほどのものとなった。
このような中、国王は財政再建のため官僚らの給料の据え置きを画策。ラーマ4世の孫である陸軍元帥ボーウォーラデート親王がこの政策に反対し、摂政のナコーンサワンウォーラピニット親王(ボーリパットスクムパン親王とも、以下「ナコーンサワン親王」)や運輸省のカムペーンペットアッカラヨーティン親王(ブラチャットチャイヤコーン親王とも以下「カムペーンペット親王」)と口論を交わし、最終的に辞任した。この事件は、そのころ普及し始めた新聞が連日報じ巷を騒がせた。
一方政府の見込みでは、1932年の予算ではさらなる赤字が見込まれることから、国王は各新聞社に謝罪とともに、官僚らの大規模なリストラを再び行うことを発表した。このことは新たなメディアであった新聞の読者であった官僚らを怒らせ、新聞社は王族ら上流階級に対するネガティブ・キャンペーンを洋々な形で展開し、政府が発禁に処すこともあった。
その一方でラーマ7世は同時期にチャクリー王朝150周年記念日に向けて、欽定憲法を制定しようと考えていたがナコーンサワン親王、憲法草案に携わったプラヤー・シーウィサーンなどの反対より断念した。このような中、立憲革命は勃発した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「立憲革命 (タイ)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.